御番鍛冶とはなんなのか?
まずは重要人物である、後鳥羽上皇について解説します。
壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の後を継いだ82代天皇となった人物です。4歳で皇位につき19歳で退位して、上皇となり院政を行った。文武両道ですべてが天才の域に達していたといわれています。特に刀剣に興味があったようです。
刀剣好きが講じて1208年、29歳の時に御番鍛冶制度を設けて技術向上に貢献された。
しかし1221年の承久の乱に敗れ隠岐に流罪となり1239年に60歳で崩御された。
上皇作と言われている菊御作について
1198年の退位後、山城国乙訓郡水無瀬、現在の大阪府三島郡にあった水無瀬宮で13年間に作刀された太刀のことをいう。銘の代わりに16葉の菊紋が毛彫りされている。これは高貴な人物は自分の名前は書かないという習慣、皇室の御紋章であることなどが由来であろうと推測される。御作は現在数振りが現存しています。
御作の作風
現存は太刀のみで備前伝と山城伝の2通りの作風があり、これは番鍛冶が備前と山城から招待されたということを証明していると思います。太刀しか伝わってませんがおそらく短刀なども製作されたと思います。側近の九条時信作の短刀が現存しています。
備前伝の作風
腰に強い踏ん張りがあり、頃合の姿で品格があり、しっかりとした姿である。刃文は匂本位の焼幅の広い重花丁子で帽子は乱れ込んで返る。地鉄は杢目肌美しく見事な丁子映り現われる。一見、一文字風であるが相違点は帽子が乱れることと、踏ん張りが強くさらに品位が高くなり、焼が若干強く、小沸がつく。また焼落としがあるものがある。
山城伝の作風
京反りの深い優しい細身の姿で元重が厚く先に行くと次第に重ねが薄くなる。小切先で小杢目肌で地沸がつき鎬が高い。刃文は小沸本位の焼幅の狭い小乱で金筋、稲妻、二重刃現われて働き豊富で帽子は乱れる。映りは出ないがやはり、品格が高く名刀である。
その他、青江、豊後行平や大和重弘の名前があるが現存していないようです。これらも見事な名刀であったことでしょう。
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