顕乗(1586〜1663)
徳乗の次男として生まれ源一郎と名乗り後に理兵衛となります。前田家より150石を与えられて覚乗と共に交代で金沢に出向き、加賀後藤を創設しました。顕乗が宗家になったのは栄乗が短命であり、その長男、即乗がまだ18歳と宗家としては若過ぎた為です。よって顕乗が後見人となったわけです。

また後藤家の再興を志した人でもあります。


即乗
(1600〜1631)
18歳の時に父が病死したので顕乗のもとで修行し5年後、家を継ぎます。また家光に招かれて扶持を与えられました。作品は上手ですが短命の為か少ないです。


程乗
(1603〜1673)
寅市のちに理兵衛を襲名、のちに加賀藩に呼ばれて、彫金の指導をして加賀後藤の発展に貢献しました。兼六園に屋敷も与えられました。廉乗の後見人でもありました。人格者であったようです。


廉乗
(1627〜1708)
即乗が亡くなった時に4歳であった為に程乗のもとで修行し、20歳で家督を相続します。1662年に幕府に呼ばれて一族を引き連れて江戸の京橋に移り住みます。作品も多くまた後藤彫り以外の作品も多数手がけています。この頃は町彫りが台頭してきた為と思われます。また通乗を養子としています。

通乗(1663〜1721)
廉乗の嫡男が早死にしたため、養子となり家督を継ぎます。彼の頃から作風が変り町彫りに対する意識があったと思われます。丁寧な作品がおおく、進歩的な考えを持っていたようで掟にとらわれず町彫りの技法も取り入れて、華やかな元禄時代の様式表しています。

寿乗(1695〜1742)
光理と名乗ります。彼は通乗と延乗に挟まれて埋もれた存在になってしまいやや薄いです。


延乗
(1721〜1748)
四郎兵衛を襲名。光孝と名乗ります。良工で掟通りの作品も残しておりますが、三所物以外の物もあります。この頃になると鍔なども掟にとらわれることはなく製作するようになったのでしょう。極めも盛んに行い折り紙も多いです。


桂乗
(1751〜1804)
吉五郎、宗家になると四郎兵衛を襲名。彼の作品は少なく、むしろ極めを沢山残しております。また一族郎党の統率に力を注いだためと思われます。


真乗
(1788〜1834)
亀市、家督相続後に四郎兵衛を襲名、光美と名乗るようになります。平凡な物が多く優劣がかなりありますが、これは代銘、代作が多いためと思われます。よって評価を下げています。


方乗
(1816〜1856)
19歳で家督相続しました。彼は器用で緻密な作品が多く、後藤家最後の良工です。方乗の名は死後贈られました。


典乗
(1835〜1879)
後藤家最後の宗家です。彼は元々宗家の嫡男ではなく、宗家で修行していたのですが16代方乗の子が金座役となってしまったので急遽、養子となり20歳で家督を継ぎます。作品は平凡です。

次は脇後藤です(工事中)