江戸金工の流派

ここでは江戸金工について解説していきます。 主なものは横谷、平田、柳川、大森、石黒、奈良、土屋、浜野派、あと加納夏雄について、代表工と作風についてまとめてあります。やはり元禄以降、金工は目覚しい進歩をしています。


横谷派
この一派は元禄から享保にかけて活躍し特に宗みん(王に民)が盛り上げました。また分派として柳川、大森、石黒派が現われて江戸金工のリーダーとなりました。この時代は後藤家が没落をはじめた時期です。後藤家はおそらく元禄の世相にあう作風(努力をした人もいますが)、または顧客であった大名の経済的困窮が理由で衰えます。

逆に宗みんは高彫りで片切り彫りの新技法を開発して世に絶賛されることになりました。

横谷宗みん(1670〜1733)
初銘は宗知で父の死後、宗みんを名乗るようになったようです。彼は家彫りに狩野派などの絵画の技法を取り入れて横谷式を創始しました。彼の得意な技法は片切り彫りと高彫り色絵です。

二代宗みん
初代宗みんの孫。しかし初代との作品の区別はなされていません。

初代宗興
実子に宗みんがいることで評価されています。二代目と区別するために祖父宗興とも呼ばれます。また幕府から彫物役を与えられました。在銘品はほとんどなく後の極めが多いです。作風は後藤家に師事したといわれているので後藤彫りのような作風です。

二代宗興
宗みんの養子。作品も一流で宗みんに近いものがあります。四分一磨き地片切彫りに傑作が多い。


平田派(七宝派)
七宝は古代エジプトが起源として考えられ、インド、中国、朝鮮を経由して伝来したものと言うのが有力です。七宝の名の由来は、仏典にある七つの宝物である金、銀、瑠璃、しゃこ、瑪瑙、真珠、まいえのことで美しさがこの宝に似て絢爛であるので七宝と呼ばれるようになったそうです。

初代の道仁彦四郎は慶長年間に諸説ありますが七宝技術を学んだようです。これを期に七宝技術を利用した刀装具を製作するようになり、その技法は一子相伝で継承されました。彦四郎は後に幕府の抱えになりました。平田家の作品は無銘がほとんどで(幕府お抱えだった為だと思われます。上代は原則無銘とされています)遺品も少ないです。後代には在銘品があります。

作風は黄、緑、青、白など華麗な七宝細工で平田独特の金模様が入ります。石目地、磨地仕立てが多く、魚子地はありません。



柳川派

大森派

石黒派

奈良派

土屋派

浜野派

加納夏雄