番鍛冶制度とは?

後鳥羽上皇が、倒幕を実現し武家政治を廃して王政復古を実現する為に北面、西面の武士制度をつくり、武士を集めて士気向上策として各地の名工を招集して月番を決めて太刀を製作させたことです。

承久記にも北面、西面の武士が、朝廷の関係者が太刀を賜り、誇らしげにしていた様子が記述されています。増鏡には上皇が刀剣の見識が専門家以上であったことと、名工を招集したと書かれています。

後世の勘中記、正和銘尽、喜阿銘尽にも菊作などと同様のことが記載されています。正史を記述する書物には上皇の立場上、番鍛冶制度に関するものがなく(身分が高い者が作刀することは当時は考えられなかった)存在を確証出来ませんがこれらの書物の記述や素晴らしい御作が現代に伝わっているので、番鍛冶制度は詳細は定かでない部分が多いがまずあったと推測されます。

番鍛冶制度が刀剣界に与えた影響とは?

日本刀の黄金時代のきっかけとなり、番鍛冶には高位高官が与えられ、所領も与えられた。これによって刀工に地位が高まり刀工になろうと思う者が増えて各地に次々と名工が現われることになった。
鍛刀技術も急速に進歩し、また鎌倉幕府によって武士が興隆してきた時期とも重なっていたので需要も多くあったことも黄金時代の出現の要因になりました。現存する名刀は1200年代の作品が非常に多いと思います。

番鍛冶に選ばれた刀工

三種類の説が伝わっており、前述したように明確性にかけますが大体、番鍛冶は40人ばかりの名前が挙げられます。備前が26人、備中4人、山城7人、美作2人、大和、ほうき、豊後が各1人で、奉受工として粟田口久国と一文字信房の両名が選ばれています。

正和銘尽の記載

1、2月  備前則宗 備中貞次      3、4月  備前延房 粟田口国安

5、6月  備中恒次 粟田口国友     7、8月   備中次家 備前宗吉

9、10月 備前行国 備前助国     11月、12月 備前助成 備前助近

通説の番鍛冶

奉受工と12名の場合

奉受工 粟田口久国 一文字信房

正月 備前則宗  2月 備中貞次  3月 備前延房  4月 山城国安  5月 備中恒次  

6月 山城国友  7月 備前宗吉  8月 備中次家  9月 備前助宗  10月 備前行国  

11月 備前助成  12月 備前助延  閏月 山城久国

番鍛冶24人・・月に二人の場合

正月 粟田口国友 備前包道   2月 備前長助 備前師実   3月 大和重弘 備前行国    

4月 備前延房 豊後行平    5月 備前包近 備前近房   6月 備前古房 備前則次

7月 備前朝助 伯き宗隆   8月 備前章実 備前助延   9月 備前信房 備前包末

10月 美作実経 備前朝忠   11月 備前則宗 備前包助   12月 備中則真 備前是助

隠岐番鍛冶

正、2月 粟田口則国   3、4月 粟田口景国   5、6月 粟田口国綱

7、8月 備前宗吉   9、10月 備前信正   11、12月 備前助則

隠岐番鍛冶は後世によるでっちあげであろうと思います。承久の乱の処分は厳しいものであったので幕府が上皇に作刀を許すとは考えにくく、記録にも上皇はあばら屋に住まわされたとあります。